江戸時代を見直す

近年江戸時代を見直す動きが多く見られます。

エコロジーの観点から、究極のリサイクル都市としての江戸のシステムの研究が盛んに行われています。

また少子化が進み、子育てや教育が難しくなった現代から、江戸の子育てを参考にできないかと研究されています。

江戸の庶民の暮らしや子育ての様子を見てみましょう

江戸時代中期には江戸の人口は百万を超え、当時世界一の巨大都市となりました。

百万のうちおおまかにいって半分の五十万が武士、五十万が庶民でした。

土地の三分の二が武家で、六分の一が寺社、残り六分の一に人口の半分に当たる庶民が押し込めらました。

七割ほどの庶民は借地に住み、その大半の三十万人以上が長屋と呼ばれる共同住宅に住んでいました。

男女比が二対一の長屋世帯では、妻帯して子供をもうけるのはかなりの幸運が必要でした。

四畳半一間の長屋では子供一人がスペースとしても限界で、少子化はいちじるしいものでした。

長屋に子供が生まれると、長屋中の人々がその子の世話を焼いてくれるので、職場が外にある母親は
育児に専念する必要はありませんでした。

子は親の所有ではなく、社会の財産なので、育児ではなく、次世代の人を育てていると考えていました。

また、手習い塾・寺子屋では

1 文字の読み書きといった基礎教育を目指しながらも、人格形成を重視する教育が行われた。

2 体罰は無く画一的な教育ではなかった

3 年齢や学習進度、一人ひとりの必要性に根ざした教育内容を教師が考えて行う個別授業が基本だった。

幕末維新期の来日外国人は、日本の識字率の高さを賞賛していたように江戸時代の日本は世界最高の教育水準を
誇る教育先進国でした。



江戸期以前の教育は

もちろん庶民とは無縁のものでした。

16世紀までの日本で漢文の読み書きができたのは公家や僧侶、役人などの一部の知識層だけでした。

公のものとして遡れるのは、天智天皇の設置した大学があります。

初代長官は帰化人の鬼室集斯(キシツシュウシ)で、中央集権体制の確立のための管理能力を持つ人材育成が狙いでした。

内容は経書専門の明経道、中国史と文学専攻の紀伝道(文章道)、明法道(法律)、算道を学んだ。

入学資格は八位以上の官位の子(男)で入試は難しいものでした。

得られる最高の権威の象徴は「博士」でしたが、やがて家系に与えられるも世襲のへと変質してしまい、
平安末期には廃れてしまいました

そうした中、父が子に直接教えたり、一流の学者を家庭教師として招き教育するようになりました。

武家の時代になると、家訓が相伝されるようになりました。

家訓とは家長の心得、交際法、会食、飲食法など、いわばしつけの箇条書きになったものでした。

一方、女姓はどのような教育をうけられたのでしょうか。

枕草子には女性の教養として習字を習い、ことを弾き、古今集20巻の歌を全て暗唱できることとあります。

村上天皇のとき、右大臣藤原師伊(モロタダ)は娘の芳子(ホウシ)を天皇の後宮に入れましたが、教育方針として
上記内容を学ばせました。

 

寺子屋の出現

江戸時代になり、中央集権制度の整備が進み、参勤交代制度により地方と中央(江戸)の交流が盛んになりました。

政治が安定し始め、生産の向上、経済の発展により商品が流通するようになると、庶民も簡単な数字や文章の知識が
必要となってきました。

その需要に対応し、日常生活に必要とされる教養を各自の求めに応じて教える民間機関が寺小屋でした。

古くは室町時代後期にさかのぼるといわれ、寺院における師弟教育からはじまったものです。

元々は寺で檀家の子供たちを集め、僧侶が教えたので、寺子の集まる部屋、寺子屋という名称になりました。

寺子屋の名称は主に上方の呼称で、江戸は武士の都で、堅苦しく、子を教え導くのに、物を売り買いするのと同じ「屋」を
使うのはふさわしくないとのことで、「手習指南所」、「手跡指南所」と呼びました。

江戸での呼称のように、手習いすなわち読み書きが中心でした。

まず平かな、次に草書を教わります。

普段の書き物は崩された草書がほとんどなので、草書さえ習えば不自由はありません。

公文書は楷書が決まりだったので、武士の子は楷書もしっかりと習い覚えなくてはなりませんでした。

商品流通が盛んになるにつれて算盤を教えるようになりました。

寺子屋は享保(1716〜1735)頃から増え始め、天明・寛政期(1781〜1800)に飛躍的に増加しました。

文化・文政(1804〜1829)頃に、庶民文化が隆盛となったのは、寺子屋の教育が普及していたからにほかなりません。

幕末には全国で一万五千とも二万とともいわれ、これが明治の小学校設立に大いに貢献しました。