江戸時代の知識層の学問

江戸時代の上層知識層とは武士、僧侶、豪農、豪商になります。

それらの家では、男の子が6歳ぐらいから親が教えるか、近所の先生に教わるなどして、
漢籍の素読と手習いをさせます。。

彼らは漢籍(漢文で書かれた中国の書籍)を学ぶことが学問でした。

すなわち字(漢字)を覚えて、漢籍を読み、「聖人の道を知る」のが目的でした。

この聖人とは孔子のことで、その道は四書五経にかいてあります。

四書五経(ししょごきょう)とは、儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経の総称で、もちろん
全部漢字で書いてあります。

漢字を読み書きできる能力は必須だったわけです。



私塾

寺子屋の上級学校にあたります。

寺子屋で読み書きを学んだ子は、丁稚奉公に出るか家業を手伝うこととなります。

それ以上に学ぶとすると私塾に行くことになります。

それ以上の教育とは四書五経を学ぶことです。

四書五経(ししょごきょう)とは、儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経の総称をさします。

ただし、このうち『大学』『中庸』はもともと『礼記』の一章を独立させたものでした。

私塾は街中にあって、武士も町人も農民も差別無く入門という形式で学生を採用しました。

だからといって相当以上の学力が必要で、希望すれば誰でもというわけではありませんでした。

ある意味、私塾は寺子屋の上級学校で、年齢も十三、四才から上になります。

1758年に国学者の本居宣長が伊勢松坂で開いた私塾の鈴屋では、『万葉集』や『源氏物語』などを講義し、488人の
門弟を指導しました。

私塾を奨励したのは八代将軍吉宗で、幕府財政立て直しにもかかわらず私塾にも援助を惜しまなかったようです。



藩校

18世紀半ば以降の藩政改革の一つとして、藩が運営する藩校が各地で設立されました

藩校の数は、幕末には270校までになりました。

藩は、藩の政治を担う優秀な人材を育成するために藩校を設立しましたが、後に庶民に門戸を開く藩校も
多数ありました。

藩校では、儒学や国学のほかに、医学、洋学、天文学などの実用的な学科を教え、学生の年齢や習熟度によって
クラスを分ける等級制を採用していました。

学生の年齢や習熟度によってクラスを分ける等級制を採用しました。

こうして、全国の藩校で高度な教育が行われ、優秀な藩官僚たちが育っていきました。


官立の学校 昌平坂学問所(昌平黌)

徳川幕府は中央集権制度を維持するため朱子学を採用しました。

朱子学は上下の秩序を重んじ礼節を尊ぶ思想で、身分社会を秩序づける理論として採用されました。

5代将軍綱吉が,上野忍岡の孔子(こうし)をまつった聖堂と林家(りんけ)の私塾を神田湯島(かんだゆしま)にうつしたのが始まり。

これを湯島の聖堂といい,林鳳岡(はやしほうこう)を大学頭に任じて,幕臣の教育にあたらせました。

幕府は昌平坂学問所を御用学の本拠とし、各藩もそこで学んだ俊英を招いて藩学校を設立しました。

江戸時代を通して朱子学は日本に定着しましたが、そのことはやがて直接尊皇攘夷思想に結びつき、
水戸学などにも影響し、明治維新への原動力の一つとなった