言語改革論

先にありますように明治に入ってから西洋の進んだ文化を輸入するために多くの新漢語が作られました。

その一方で言語は、日本が西洋から学ぶべきことの大事な一つであるとともに、西洋文化を学習するための
手段でもあったため日本語の改良、変革が提起されました。

明治時代になって、特にはじめの20年間は言語改革論が盛んにとなえられました。

それは大きく二つに分けることができます。

一つは日本語をやめて、外国語を採用しようという主張で、もう一つは日本語は捨てないが漢字は捨てよう
という主張です。





英語を採用しよう

遅れた言語である日本語を捨て、英語を国語にしようという主張をしたものは数多くいましたが、後の文部大臣の
森有礼が最も著名でした。

森はアメリカで刊行した英文の著書『日本の教育』の中の、米国の学者ホイットニーに宛てた書簡で「ヨーロッパ語の
どれかを将来の日本語にしなければ先進国と一緒に進めない」と述べています。





漢字論1  漢字廃止論の始まり 前島密

明治以前では幕末に、前島密(近代郵便制度の創設者)が漢字御廃止之議を将軍徳川慶喜将軍に建言しました。

前島は西洋の列強の実力を目にし、国の振興を図るために、教育に時間がかかる漢字を廃止して、かなを
用いて国語教育の早急な改革の必要をときました。

  『国家の大元は国民の教育にある。その教育が身分を問わずに国民全体に行き渡らせるためには、
    できるだけ「簡易なる文字」と「文章」で無ければならない。

  さまざまな学問も文字を知ってはじめて理解できるようではいけない。学問というのは、その本質を理解することこそが
    大切なのだ。

  だから、わが国でも西洋諸国のように表音文字(仮名)を用いて教育し、漢字を用いず、ついには漢字を廃止するのが良い。

  音声にすれば日常会話になり、それを書けば文章になる。そういう「口読筆記の両般の趣」にすべきである。』

前島密は優しい言葉を用い、漢字を使わずに仮名だけで書き写せるようにして、話し言葉と書き言葉を一致させるよう
主張しています。

この時点では仮名と言うだけでひらがな、カタカナのどちらなのかは明らかではありませんでした。





明治時代になってからも、前島は何度か新政府に建議をおこなっています。

明治2年(1869)「国文教育に付き建議」、明治6年に「学制御施行ニ先ダチ国字改良相成度披見内申書」、さらに「興国文廃漢字の議」
などです。

この中でもあとの二つは漢字廃止についての意見を載せています。

最後のほうの建議では、かんじを用いるに付いて、学び難い所以13ヶ条、煩雑な」所以6ヶ条、弊害6ヶ条など、色々な理由を挙げて
漢字廃止を訴えていましたが、ここでも漢字廃止後になにを採用するべきかはありませんでした

ただ、前島はこのころから「まいにち ひらがな しんぶんし」に関係していましたので、平仮名の採用を考えていたと思われます。





漢字論2  漢字に代わるもの

仮名採用論で、平仮名を主張するほうが明治初年では一般的でした。

これは、当時の婦女子が読んでいたものは片仮名ではなくて、平仮名であったためです。

清水卯三郎は「平仮名ノ説」を『明六雑誌』(明治7年)に出して、平仮名採用論を説きました。

清水には平仮名で書いた物理化学書の『ものわり の はしご』(明治7年)の訳書があって、「すいね(酸素)、みずね(水素)、ほのけ(水蒸気)、
まじじろひもの(化合物)」のように、平仮名を使って、なるべく一般の人にもわかるように著せることを示そうとしました。



さらにローマ字採用論があり、明治2年に南部義籌(よしかず)が山内容堂に「修国語論」を建白しました。

内容は漢文で書いてありましたが『洋字を仮りて国語を修むるに如くはなし」とローマ字採用論を主張しました。

また明治5年には文部省に「文字ヲ改換スル議」を出し、その中でもローマ字採用論を説いていました。

さらにこのほかに西周(にし あまね)は「洋字ヲ以テ国語ヲ処スルニ論」を、『明六雑誌』第一号に発表しました。

その中でローマ字採用の利点を十ヶ条、害を三ヶ条挙げ、ローマ字表記の試みも提出していました。

ローマ字採用論を説く人々には、特に洋学に関係のあったものが多くありました。

洋学は明治時代になって、せんもんに分科しましたが、理学、工学にたずさわった人たちによって、以後もローマ字論は受け継がれ
主張されて行きます。





漢字論3  漢字節減論

漢字節減論は福沢諭吉が、教科書として出版した『第一文字之教』(明治6年)の中で主張しています。

要約しますと、「むつかしい漢字を使わないようにして行こう。漢字は2,3千文字で足りるだろう。この本も漢字は二千ほどしか使っていないが、
使用するには問題は無い。」と言うことでしょう。

実情に合わせながら、直していくと言う意見で、以後の国字問題はこの流れで進んでいったと言えるでしょう。

さらに、この後福沢門下生や慶応義塾を出た人に、この考えを受け継ぎ、より具体化しようとする人たちが現れました。