漢字の伝来と日本語への取り込みの歴史3

江戸時代から明治の漢字・漢文事情について調べてみます。



漢文訓読

漢字の訓読みを発明した日本人は「漢文訓読」をも発明しました。

訓読みとは、外国語の文章である漢文を、日本語文として読む方法です。

漢文の横に訓点といわれる符号をつけて読みますが、8世紀ころからみられました。

今日みる「レ点」、「一・二点」などは点には見えませんが、これらも訓点といいます。

16世紀までの日本で漢文が読めたのは、公家や僧侶、役人などの一部の知識階層だけでした。

徳川家康は漢文教育によって,戦国時代以降の下克上の連鎖を断ち切ろうとしました。

家康は豊臣家を滅ぼしたあとに元号を元和(1615年)に改め、幕府の許可を得ない私闘や戦争を禁じました。

これを元和偃武(ゲンナエンブ)といい、元和は平和の世の始まり、偃武は武器を伏せて戦争をやめること。

出典は漢文の古典、『書経』の「偃武修文(武を伏せて文を修む)」です。

幕府は武士が儒学の漢文を学ぶことを奨励しました。

漢文訓読の方法も、一般に公開されるようになり、さらに訓点もよりわかりやすく、カタカナ
による送り仮名など、初心者でも読める訓点が世に広まりました。



元禄時代には漢文が庶民にも

江戸幕府が武断政治から文治政治に移行できたのは、五代将軍綱吉の治世、元禄時代(1680〜1709年)です。

綱吉は漢文の学問が好きで、みずから『易経』の講義をしたり、孔子廟(後の昌平黌)を建設したほどでした。

また、水戸藩主の徳川光圀も漢文の学問に力をいれ、藩の事業として漢文による歴史書「大日本史」の編纂を始めました。

武士や町人の間にも漢文学習がはやり、地方の藩士が漢詩の習作をしたり、、寺子屋でも「論語」などの漢文の素読が
盛んにおこなわれました。

正統派の漢文の本だけでなく、文芸作品の「三国志演義」や「水滸伝」の和訳本が庶民のあいだで人気を博しました。

落語の「饅頭こわい」の原話の入っている笑話集「笑府」なども入ってきました。



海外情報の収集も

江戸時代の日本人にとって、漢文は古典であるだけでなく、海外の情報を収集する手段でもありました。

鎖国意時代でしたが、朝鮮や中国(当時は清)から多数の書物を長崎経由で輸入し、漢学者に訓点を施させて
「和刻本」として発行されました。

秀吉の朝鮮出兵の様子を漢文で著した朝鮮の「懲録(チョウヒロク)」という本の和刻本が元禄時代に発行されました。

来日した朝鮮通信使の一行が、その本が書店に置かれているのを見ておおいに驚きました。帰国後これが報告されると、
対日外交の秘密が日本に漏れていたと大騒ぎとなったということです。

また清では出版や所持が禁じられていた本が日本では広く読まれていました。

清王朝の建国期」の秘密を書いた「清三朝実録採要」や「清三朝事略」、清軍が漢民族を虐殺した様子を生々しく記録した
「揚州十日気」や「嘉定屠城紀略」などです。

明治になって来日した中国人留学生たちは、日本で初めてこれらの本を読み、ショックを受け、民族意識に目覚めました。

文学者の魯迅もその回想録の中で、当時の留学生仲間が東京の図書館で先にあげた本を書き写して印刷し、中国に送った
ことを記しています。

アヘン戦争でイギリスと戦った林則徐は、西洋の脅威に危機感を持ち、彼の側近の魏源は、「海図図志」という本を著し
欧米の事情を紹介するとともに、”外国の技術を学ぶことで外国に対抗する”方策を提言しましたが受け入れられませんでした。

一方、日本ではこの本が輸入されるや、これを読み、西洋文明の実力を認め、日本が植民地化されるという危機感を持ちました。

幕末の日本が攘夷から開国に転じたのも、明治政府が殖産興業や富国強兵に力を入れたのもこの本を真摯に学んだ影響でしょう。

これができたのも、漢文の素養が養われたからに相違ありません。



日本独自の漢語

英語の「デモクラシー」や「エコノミー」を民主主義、経済と日本独自の漢語に置き換えて受け入れたのは
日本のすばらしさでした。

欧米の技術や文化が入ってきた明治初期のころは、日本語で高等教育が出来ませんでした。

幕末から明治初期にかけて、日本は多くの外国人を招聘し、西洋の学問や科学技術を学びました。

「少年よ大志をいだけ」のクラーク博士(米国人)は英語で、自然科学一般を、ベルツ(ドイツ人)はドイツ語で
医学を講義しました。

陸軍でも日本人の上官が、日本人の兵隊に、日本語なまりのフランス語で「バタイヨン、ハルト!(大隊、とまれ)」
と号令をかけて訓練していました。

まだ「大隊」とか「とまれ」という訳語が決まっていなかったためでした。

明治政府の初代文部大臣となった、森有礼は日本語だけで近代的な高等教育を行うのは無理と考え、英語を日本の 公用語とする英語国語化論を提唱しました。

こうした中で日本独自の漢語(訳語)が創作されました。

科学、技術、哲学、自由、権利、義務、宗教、進化などです。

この独自漢語が爆発的に増えるのは、幕末の「黒船」来航以降です。

幕末から明治にかけて多数の啓蒙家が、西洋の思想や学術を日本に紹介するための漢語を考案しました。

なかでも西周(にしあまね)と福沢諭吉は、西洋の学術用語を体系的に翻訳し、紹介しました。

新しい漢語には、もともと漢文に存在した古い漢語を新しい意味に転用したものと、まったく新しい漢語としてゼロから
作ったものの2つがあります。

『自由』は中国では「自分の勝手にする」という意味でしたが、これを西洋的なものに転用したものです。

まったく新しくつくられたものは人民、共和国などで、1949年に成立した「中華人民共和国」の国名のうち
純粋な中国製漢語は「中華」だけで、「人民」も「共和国」も日本製の輸入漢語でした。

実際この国名に決めるとき、毛沢東らは克明の三分の二が「日本語」になってしまうことに」頭を抱えましたが、
他に適当な代案もなくこの国名に決まったとのことでした。

こうなったのも、日清戦争で日本が勝利した後、大量の中国人留学生が来日して、日本語の翻訳書を通じて西洋の学術を
学ぶようになったことがありましょうが、なんといっても日本人の考案した漢語はセンスがよく中国人にもすんなり
受け入れられやすかったからでしょう。





表札あれこれ その3

瀬戸表札ができるまで。

北海道の私どもで作っていた表札は、昭和50年代前半までは瀬戸製の書入れ(焼付け)表札がほとんどでした。

直径1メートル50センチほどの電気窯で、およそ900度くらいで焼き上げます。

瀬戸表札は今でも同じですが、長方形で5号(15.5×6.5×2cm)と6号(18.5×7.7×2cm)が主流で、
格子状に組み上げて窯に入れます。

焼く量にもよりますが、およそ2時間加熱すると焼き上がりです。

温度計は無く、のぞき窓から見える表札の色が、赤色から、オレンジ色に変化して、明るい黄色になると
焼き上がりです。

夕方に電源を入れて約2時間で切って、そのまま放置し翌朝ふたを開けます

そのままではまだ熱すぎて出せませんので、扇風機を風をあてて冷まします。

裏木を当てて完成です。